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豊臣秀吉が愛用した「黄金の茶室」が名護屋城博物館で一般公開されています

3月27日から佐賀県立名護屋城博物館の2階常設展示室内にて、豊臣秀吉が名護屋城内で組み立てて使ったとされる「黄金の茶室」(復元)が、一般公開されました。この黄金の茶室ですが、伝説かと思われがちですが、本当にありました。同博物館によると、以下のように説明されています。

“記録上、「黄金の茶室」は名護屋に運び込まれて4回使用されたことが確認されています。

・在陣の大名衆らとともに茶会(天正20(1592)年5月28日)
・フィリピン使節団に披露(天正20(1592)年7月8日)
・加藤清正の家臣への労い(天正20(1592)年7月)
・明国使節の歓待(文禄2(1593)年5月23日)

博多の商人である神屋宗湛(かみやそうたん)が記した茶会記「宗湛日記」などによれば、茶室の広さは3畳で、全体が金で包まれていたと記されています。”

さて、この「名護屋城」ですが、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役/1592年~1598年)の際、全国から「オールスター」ともいえそうな大名が勢揃いし、各大名が周辺に陣(小さな城ないしは砦のようなもの)を作り、出兵に備えたのでした。

この場所は、ここはもともと海の武士団・松浦党の一派である「名古屋氏」が拠点としており、中世の地図には「なごや」という地名が記されています。愛知県の那古野(名古屋)と縁がある秀吉が来る前から名古屋氏はいたわけで、那古野と同じ読み方なのはたまたまです。秀吉は現在の中国である明を手に入れるのが目的でしたが、結局朝鮮で足止めをくらいます。戦いが始まってから約20日間でソウルまで進み、さらにピョンヤンまで侵攻しますが、明から援軍が来て膠着状態。結果、明と秀吉で講和の運びとなるも和議交渉は決裂。その後2回目の慶長の役となり、最終的には秀吉の死を契機に日本の大名は朝鮮半島から撤退する、という流れです。

同博物館は、朝鮮出兵もちろん、その前後の日本列島と朝鮮半島との交流の歴史について展示しています。今は天守などの建物はないものの壮大な石垣が残る名護屋城跡と一緒にぜひともお越しくださいませ。歴史好きな方にはたまらない時間になることでしょう。なにしろ、大河ドラマで桃山時代を扱った場合は、名護屋城は切っても切れない関係にあります。日本全国の大名が一堂に集い、人口20万ともいわれる一大都市をなした場所はここ以外にないのです。

というわけなので、名護屋城の写真をまずはズラリと並べてみますね。

常設展示室も充実。基本的には日本列島と朝鮮半島との交流の歴史を時代順に紹介するほか、名護屋城とその周囲の城下町の巨大ジオラマも圧巻です。当時、名護屋城は大坂城に次ぎ、日本では2番目に大きな城でした。1592年にこの地にやってきた各地の大名はその間、お茶や能を楽しんだようです。現在でも陣の跡がハッキリと分かるのは、堀秀治のもの。御殿や茶室、能舞台の跡を見ることができます。各大名は、秀吉や他の大名と付き合うため、それぞれの陣屋は戦いの最中とは思えないほど文化的な景観が広がっていたのです。

話は黄金の茶室に戻りますが、これは独立した建物ではなく、屋内に設置できるタイプのものです。移動も可能で、最初は大坂城にあったという記録が存在します。完成の翌年には京都の御所へ移動されました。目的はなんと、天皇を茶の湯でもてなすことでした。さらに、北野大茶湯などで披露された後、朝鮮出兵に伴いその出兵拠点となった名護屋に黄金の茶室がやってきたのです。

これまでに黄金の茶室が使われた、あるいは見たとの記録は全部で9回確認されていますが、その最後の4回は名護屋が舞台です。秀吉と近い関係にあった博多の商人・茶人の神屋宗湛は、名護屋城での黄金の茶室の茶会に参加し、その時の様子を驚くほど詳細に記録しています。今回の展示も、その茶会記「宗湛日記(そうたんにっき)」を参考にして復元しました。

既出の通り、名護屋城の周辺には、陣屋がたくさんあり、これまでにその跡が150以上見つかっています。有名な武将も含めほぼ全国のすべての大名が来ているため、名護屋城跡周辺に多数残っている彼らの陣跡を巡るのも楽しいものです。名護屋城近くの交差点名には「伊達政宗陣跡」などもあるんですよ。

短い期間ではありますが、当時の名護屋は最大20万人以上ともいわれる人口を誇る巨大都市だったわけです。とはいっても、実は当初、出兵の拠点は博多の予定だったようです。しかし、それがなぜ名護屋になったかといえば、リアス式海岸で沢山の船を停めることができる良港の存在や、朝鮮半島への航路上にある壱岐・対馬の中継点であること、さらにこの一帯を拠点としていた海の武士団・松浦党の水先案内人としての役割などがあります。こうした要因もあり、最終的に名護屋が出兵の拠点となったのです。

さて、その後の名護屋城の話に入りますが、結局城として機能したのは文禄・慶長の役の1592年から1598年の期間です。戦いの後、名護屋城や大名陣屋の建物の一部は移築されたようです。伊達政宗はわざわざ仙台まで名護屋城にあった門を持って帰ったとの伝承もあります。このように、建物は破壊されたのではなく、平和的になくなったとされています。

しかし、名護屋城の石垣は、後に江戸幕府の関与により意図的に壊されました。そのきっかけとしては、江戸時代初めの一国一城令や、その後に当時廃城となっていた島原の原城が一揆の拠点となった「島原の乱」などが考えられます。名護屋城の石垣は、その強度を弱くするため、角を中心に壊されています。その様子は実際に見てみるとよく分かることでしょう。

話は再び茶室に戻りますが、桃山文化全盛の当時、名護屋の地には、茶の湯や能をはじめとする桃山文化の粋が集まりました。様々な人々が集い、文化が花開いた場所。そこはまさにその後の日本文化発展の「はじまりの地」だったのです。そして黄金の茶室は、名護屋で花開いた桃山文化の象徴といえます。

茶室そのものは3畳で、壁も障子も金で飾られています。茶道具も、茶筅と茶巾以外はすべて金でした。なぜ、このような贅沢なことができたかといえば、当時は金と銀の産出量が飛躍的に増え、秀吉はそれらを掌握し、莫大な富が集まったわけで、大坂城を訪れた大友宗麟は大量に積まれた金銀を目にして驚嘆しています。

秀吉は、金や銀を恩賞などで大名・公家に配りました。金銀はまさに秀吉の権力の象徴だったのです。黄金の茶室もいわばその象徴であり、天皇を相手に金の茶室を使うという前代未聞の行為は、まさに権力の視覚化といえましょう。

黄金の茶室は組み立て式で箱に入れて運べるようになっていました。このことはポルトガルの宣教師・ルイス・フロイスの記録に残っています。

秀吉の黄金の茶室はその後どうなったのかはよく分かっていません。名護屋で明国使節の歓待に使用したのを最後に、史料からは姿を消します。一説によると大坂に戻り、大坂夏の陣・冬の陣で運命を共にしたともいわれています。

色々と解説してきましたが、戦いの出兵拠点として築かれた名護屋城は、一方で桃山文化の全国への発信地という側面もあることがお分かりになったのではないでしょうか。それでは、最後に茶室の担当職員・佐賀県名護屋城博物館学芸員の安永浩さんから黄金の茶室の楽しみ方を教えてもらいましょう。

「以前から当館では、名護屋城ゆかりの黄金の茶室復元の可能性を探っていました。今回、佐賀県が推進する肥前名護屋の価値を磨き上げ文化観光資源として活用する「はじまりの名護屋城。」プロジェクトの目玉として、文化庁の補助金も活用し、ようやく実現にこぎつけることができました。黄金の茶室は『わびさび』の対極として語られがちではありますが、皆さまはどう感じられるか、ぜひ実際にご覧いただき、400年前の肥前名護屋の賑わいに思いを馳せていただきと思います。この茶室が、多くの方々の名護屋城への関心を高め、訪れていただくきっかけとなればうれしいです。」

佐賀県立名護屋城博物館
住所:佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3
TEL:0955-82-4905
開館時間:9:00~17:00
入館料:無料(特別企画展は有料)
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日休み)、年末年始
URL:https://saga-museum.jp/nagoya/

最後に、博物館からの注意書きを付け加えておきますね。

混雑状況によっては、見学までお待ちいただく場合や、見学いただく時間が短くなることもありますので、お時間に余裕をもってお越いただきますようお願いいたします。また、団体での御利用に当たって、密を避けるため複数のグループに分かれていただくこともあります。御不便をおかけし大変申し訳ございませんが、御理解と御協力をお願いいたします。