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実は大隈重信って佐賀県出身なんですよ!ここでは、大隈重信がどんな人物だったのかについて紹介します!!「薩摩の西郷隆盛、土佐の坂本龍馬。佐賀の大隈重信」でいい

さて、早稲田大学を創設した大隈重信って佐賀県出身だとご存知でしたか?「早稲田をつくって、総理大臣にもなった人」くらいは知っている人も多いかもしれませんが、彼がどんな人物だったのか、何を成し遂げ、現代の我々にどのような影響を与えているのか「大隈重信記念館」館長の江口直明さんの解説とともに紹介します。

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慶應義塾大学の創設者である福澤諭吉は佐賀と同じ九州の大分県中津市出身。一万円札の肖像にも描かれ圧倒的知名度を誇ります。『学問のすゝめ』には「天は人の上に人を造らず」など有名なものがあります。ところが大隈となると「早稲田大学を作った以外なんかあったっけ?」となってしまいがち。

それについて江口さんは「佐賀の県民性なんですかねぇ……。控え目なんですよ。『自分が! 自分が!』と前に出る人が少ない。だから大隈重信が佐賀県出身であることをあまり言わないし、その実績も誇りません。ただ、彼の実績が『色々あり過ぎて絞れない』という事情もあるのです」と語ります。

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それではその「色々あり過ぎる」ものを紹介しますが、江口さんは密かにこう語ります。

「『薩長土肥』って言い方するじゃないですか。当時の佐賀藩の技術力があったから明治維新は成し遂げられ、佐賀藩が日本初の反射炉(築地反射炉)を築き、当時主流だった「青銅砲」よりも強力な「鉄製大砲」の鋳造に日本で初めて成功したのです。日本国内で「鉄製大砲」を製造できたのは、佐賀藩だけだったので、台場(現在のお台場)に設置した大砲は幕府が佐賀藩に製造を依頼したもの。あの先進的な薩摩藩の島津斉彬は『西洋人モ人ナリ、佐賀人モ人ナリ、薩摩人モ同ジク人ナリ。退屈セズ倍々(ますます)研究スベシ』という発言を残しています。これは薩摩の藩士に対して『君たちもできるはずだ』という叱咤激励です。だから私は『肥薩長土』でもいいんじゃないかな、なんて思うこともあります」

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 ここでは、「大隈重信記念館」の内部と外をめぐりながら、大隈重信の成し遂げたことを紹介していきましょう。

【世界と合わせるカレンダーを作った】
太陰暦から現在皆さんが使っている太陽暦のカレンダーを取り入れたのは大隈重信。理由は「諸外国が太陽暦なのにそこに合わせないのは無駄(意訳)」ということにあり。

【日本初の新橋・横浜間の鉄道敷設を推進したのは大隈重信】
鉄道敷設に尽力。1872年(明治5年)に日本で初めての鉄道を新橋-横浜間で走らせた。計画はわずか2年間だったが、これを大成功させた。西郷隆盛とは犬猿の仲だったこともあり用地取得が難航したため、高輪近くの海の上(!)に堤防を作り、その上に2.7kmの線路を敷いた。2020年に高輪ゲートウェイ駅付近に貴重な遺構「高輪築提」が発見され、大きな話題となり、現在、開発と保存を両立させる観点で議論されている。

高輪築堤

高輪築堤第7橋梁部(佐賀県撮影)

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「東京都高輪海岸蒸気車鉄道図」所蔵:佐賀城本丸歴史館

【これからはオランダ語よりは英語だ! をすぐに理解】

蘭学が花盛りの頃、法学者・神学者・宣教師のグイド・フルベッキから長崎で英語を学ぶ。理由は、アメリカを視察した佐賀藩士・小出千之助から「これから世界の覇権を取るのは英語を使う英米だ。オランダはあくまでもヨーロッパの小国だ」と助言されたため。

 さて、ここで一旦江口さんの解説は中断し、「大隈重信記念館」の紹介をしますね。

 記念館と旧宅(生家)で構成されており、記念館には、大隈にまつわるアイテム(義足含む!)が多数紹介されるほか、早稲田大学にまつわる部屋もあります。

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そして2021年3月28日まで『令和2年度 大隈重信記念館企画展 収蔵品展 「今につながる大隈の遺産~あるんである~」』を行なっています。同企画の概要については公式HPの説明を引用します。

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日本の近代化のために大隈重信が明治新政府で成しえた業績は、まさに現代の私たちの生活につながっています。岩倉使節団の留守を預かる大隈は、鉄道の敷設、新貨幣制度、郵便事業、太陽暦の採用といった施策を次々に実行していきました。それは大隈がずっと先の未来を、世界の中の日本を見ていたからなのです。
令和3年1月10日に100回忌を迎えるにあたり、大隈が今に残した遺産を、当館の収蔵資料を中心に振り返ります。今まであまり公開したことのなかった秘蔵品も!ぜひこの機会にご覧ください。

【海外との貿易でボッタクリを避けるべく、「円」を誕生させた】
新貨幣制度「円」を制定したのも大隈重信!「円」「銭」の新貨幣が誕生するまでの日本は「両・分・朱」という四進法のもので、硬貨の形も四角形もあれば円形もあった。これを大隈が「円」という十進法の単位にして、硬貨の形も円形に統一した。これにより、世界と同じ基準での取引が可能になった。その前まで、日本は不当に金や銀を諸外国に取られ過ぎていたのだ。

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【男女共同参画を推進】
女子教育の重要性を説き、日本女子大学の創設に関わる。そして、早稲田大学はいちはやく共学化に踏み切った大学。

【慶應・福澤諭吉との関係性】
福澤諭吉とは実は仲が悪くなかった。互いに会うまでは「コンチクショー!」と思っていたらしいが、雑誌編集者が面白がって会わせたらすぐに意気投合した。そして「100年来の知己」とまで言うようになったのだ。

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【データサイエンスの重要性を知っていた】
過去と現代のデータ両方を見ないといけないと言い出し、自ら「統計院」を作って初代院長になる。これはデータサイエンスの走りであり、予算決算をする際にデータを活用。大隈は国家のグランドデザインもできるし、タスクも作れるし、目標作成のロードマップを作れ、財務もわかる人物だった。まさに、次から次へと近代日本の骨格を作るような事業を成し遂げていった。

 だからこそ江口さんは「どこにどう焦点を当てていいのやら……。大隈重信はいろんなことをやったのでので、『代表作』みたいなものがなくて結果的に目立たないのでしょうね」と言うのです。

【外交的ハッタリ上手】
 イギリスの公使・パークスとの交渉役で名を挙げる。当時32歳の大隈重信に対してパークスは「この若造め……」と思い、簡単に言えば「もっと上を出せ!」と言う。大隈重信は「もし私と話をしないならば、もう、あなたの日本政府に対してしているこの交渉は取り下げているとみなす」と言う。パークスは「私はイギリス国王の代理として来ている。それをあなたのような立場の者が対峙するとはどういうことか?」とさらに反論。それに対し、大隈重信は「私も天皇の代理として来ている」と述べ、無事交渉は成立。本当に天皇の代理だったかは分からない。

【義足生活になったが運はあった…】
 51歳・外務大臣の時に乗っていた馬車に暴漢から爆弾を投げられ、馬車の破片が右脚に飛び、重傷負う。その時、たまたま陸軍の野戦病院を経験したことのある海軍の軍医長が近くを通りかかり、すぐに処置をし、右脚切断とはなったものの命に別状はなく83歳まで生きた。

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そして、最後に江口さんの控え目ながらも主張する発言を聞きました。

「佐賀には『7賢人』がいます(鍋島直正、島義勇、佐野常民、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信)。幕末から7賢人が明治の中枢を駆け上がっていった。明治6年については中枢(参議)の9人中4人が佐賀藩です。しかし、明治7年に明治維新で職を失った不平士族に江藤と島がリーダーに担ぎ上げられた佐賀戦争が起きて(江藤は不平士族たちの説得のために帰佐していた)、そこでリセットされてしまった。長崎に吸収されたり、その後独立したものの、そうした一連の流れで、明治維新に貢献した佐賀の偉業が多く語られなくなってしまったのではないかと思います。もちろん想像でしかないですが。

7賢人

まぁ、色々佐賀や大隈重信については語ってきましたが、私が講演をする時に必ず言うのは、『大隈重信を誇りにしていい。常人ではできないようなことを本当に一人でやったようなもので、もっと誇りに思っていい』ということです。できれば、『薩摩の西郷隆盛、土佐の坂本龍馬。佐賀の大隈重信』――このくらいに持っていきたいと考えています」

はい、こんな感じで大隈重信、現在の日本の礎をかなり築いた人であることがお分かりいただけたかと思います。
大隈重信の偉業については、この動画を見ればすっきりわかりますよ! 

動画の説明:早稲田大学の創始者にして内閣総理大臣を2度務めた大隈重信侯(1838~1922)の100回忌を迎えた2021年、大隈の偉業に光を当てる「大隈重信100年アカデミア」が現在展開中です。1月9日には「入学式」が行われ、角界で活躍するリーダーたちが語り合い、未来へのエールを交換し合いました。

あとは大隈重信記念館の生家の様子なども含めて写真をどうぞ~!

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